山下智久の若い頃:11歳の入所からブレイクまでの全軌跡
「山P」という愛称を聞いて、胸が熱くなるファンは今も世界中にいる。俳優として、歌手として、そして今や国際的なエンターテイナーとして確固たる地位を築いた山下智久。しかし彼がどんな少年時代を送り、どんなきっかけで芸能界への扉を叩いたのか、知っている人は意外と少ない。その原点を丁寧に辿ることで、現在の山下智久という存在の輪郭が、より鮮明に浮かび上がってくる。
生い立ちと家族——千葉育ちの少年が夢を持つまで
山下智久は千葉県船橋市出身で、1985年4月9日生まれ。ごく普通の少年だった。家族構成は父親、母親の直美さん、3歳年下の妹の莉奈さんの4人家族だったが、山下が若い頃に両親は離婚している。離婚後は母と妹との3人暮らしが続いた。
一説では、女手ひとつで苦労しているお母さんを楽させたいという気持ち、そして妹にホールケーキを食べさせることが夢だったというエピソードも語られており、お母さん思い・妹思いの少年だったことがうかがえる。その家族への思いが、後の芸能界入りへの原動力のひとつになったとも言われている。
滝沢秀明への憧れ——ジャニーズ入所のきっかけ
転機は小学校5年生のある夜、テレビの前で訪れた。小学校5年生のとき、テレビドラマで主演する滝沢秀明を観たことがきっかけだった。「子供でもテレビに出ることができるんだ!」と考えた山下は、その瞬間から芸能界を意識し始める。
1996年、11歳になった山下は母親に頼んで事務所に履歴書を送ったことで入所が決まった。当初、書類を出したものの、しばらくははっきり合格とは言われず、ヤキモキして不安な日々が続いたこともあったそうだ。それでもめげずに待ち続けた少年が、やがてジャニーズJr.黄金期を牽引するスターになるとは、当時の誰が想像しただろうか。
ジャニーズJr.時代——「山P」誕生と骨折エピソード
ジャニーズJr.として活動中はKinKi KidsやV6、タッキー&翼のバックダンサーを務め、人気バラエティー番組『8時だJ』などに出演した。同世代の中でも一際目立つ存在感。先輩たちの背中を追いながら、山下は確実に力をつけていった。
「山P」という愛称の誕生には、実はユニークな逸話がある。ジャニーズJr.の頃、ピンクの衣装を着るべきところ青の衣装を着てしまい、他のJr.たちに「山下ピンクだよ!」と言われていたのを聞いた滝沢秀明が「山下ピンク」と言い出し、その後短縮されて「山P」となった。偶然の着替えミスが、今も世界中のファンに親しまれるニックネームを生んだとは、何とも面白い話だ。
初めてジャニーズJr.としてメディア出演が決まった際、はしゃぎすぎて学校で骨折してしまった。手術が必要な状態だったが、痛み止めを飲みギプスをして、気合いで収録に参加した。その心意気が買われ、次からもレッスンに呼ばれるようになったという。この一件が、山下のJr.時代における最初の大きな転換点だったと言っても過言ではない。
学生時代の苦悩——仕事と学校の板挟み
華やかなステージの裏で、学校生活は決して楽なものではなかった。中学校時代には先輩からジャニーズタレントであることを冷やかされたりしたことから、当時を振り返って「学校は嫌いだった」とインタビューで述べている。また仕事の都合で中学校にはあまり通えなかったこともあって、成績も悪かったとのことだ。
出身高校は芸能人が多いことで有名な堀越高等学校のトレイトコース。2004年2月13日に卒業した。同期には城田優、田中聖、蒼井優、上戸彩らがいた。そのまま芸能活動だけに専念する選択肢もあったはずだが、山下は違う道を選ぶ。
大学に進学したのは嵐の櫻井翔がすごく勉強しているのを見ていたことが影響したそうだ。「デビューできるかどうかも分からない状況だったので、一応大学に行ってちゃんと勉強して、万が一のために備えようという刺激をいただいた」と語っている。彼は2008年春に明治大学を卒業している。芸能人コースから難関大学への進学は、当時でも異例のことだった。
14歳での初主演——デビュー前から輝いていた才能
ジャニーズJr.時代の山下智久の若い頃に特筆すべきは、まだグループデビュー前でありながら、次々と重要な役を射止めていった事実だ。1999年、14歳の時には『っポイ!』で連続ドラマ初主演を果たし、その後も『池袋ウエストゲートパーク』や『ランチの女王』などデビュー前から多くの話題作に出演した。
2000年のTVドラマ「池袋ウエストゲートパーク」では、日刊スポーツドラマグランプリの最優秀新人賞を受賞した。まだ15歳。同世代のほとんどが受験勉強に追われていた年齢で、すでに業界から「新人賞」を手にしていた。
2002年には生田斗真、長谷川純、風間俊介と4人でFour Topsというユニットを組み、レギュラー出演した『ザ少年倶楽部』では「Pちゃんのひとりごと」というコーナーも担当した。このユニットは「デビュー確実」と言われた伝説的な存在で、後に全員が主役級の俳優として大成することになる。
NEWSデビューとセンターへの道——2003年の転換点
2003年9月15日、NEWSのメンバーに選ばれ、同年11月7日にシングル「NEWSニッポン」でCDデビュー。2011年に脱退するまでグループのリーダーを務め、センターとしても活躍した。
タッキーこと滝沢秀明と今井翼がデビューした後、山下はジャニーズJr.の非公式リーダーとなった。その立場がそのままNEWSのセンターとしての役割に直結した形だ。山下はその当時の凄まじい人気からNEWSの絶対的センターとして活躍し、メンバーをまとめていた。
「青春アミーゴ」の爆発的ヒット——若い頃最大の転換期
山下智久の若い頃を語るうえで、2005年は絶対に外せない年だ。2005年に放送され話題になったドラマ『野ブタ。をプロデュース』に亀梨和也と共に出演。ドラマの中での役名である修二(亀梨和也)と彰(山下智久)名義でリリースしたCD『青春アミーゴ』は、期間限定ユニットであったにも関わらず爆発的な人気を誇り、累計売上162.2万枚を記録した。
当時、修二派か彰派かという議論がSNSの前身とも言えるネット掲示板を席巻した。山下智久と亀梨和也というタイプの異なるイケメンの共演は、世代を問わず日本中の視聴者の心を掴んだ。この時期の山下は、まさにアイドルとしての全盛期を迎えていたと言っていい。
ソロCDデビューと俳優としての確立——20代前半の快進撃
2006年には『クロサギ』でプライムタイムの連続ドラマ単独初主演を務め、5月31日に主題歌「抱いてセニョリータ」でソロCDデビュー。80万枚以上を売り上げる大ヒットとなった。
2007年放送のドラマ『プロポーズ大作戦』で月9初主演。その後、『ブザー・ビート〜崖っぷちのヒーロー〜』や『コード・ブルー -ドクターヘリ緊急救命-』など、計5回にわたって月9作品で主演を務めた。これほど月9という枠を制した俳優は、ジャニーズの歴史を振り返っても、そう多くはない。
2008年は学業との両立を図り、9月19日に明治大学商学部を卒業した。多忙を極めながらも学位を取得した事実は、山下の地道な努力と強い意志を示している。当時の後輩アイドルたちにとっても、励みになったエピソードとして語り継がれている。
若い頃の外見の変化——茶髪のやんちゃ顔から大人の色気へ
外見という点でも、山下智久の若い頃は今とは大きく異なっていた。若い頃は細身で明るい茶髪のやんちゃなスタイルだったが、年月を重ねるごとに筋肉質で男らしいスタイルに変化した。ジャニーズ時代はやんちゃな茶髪スタイルだったが、現在は黒髪で大人の色気を纏っている。
整った顔立ちで世界が認めるイケメンだが、そのイケメンさは若い頃から現在までずっと変わっていない。ジャニーズJr.時代から圧倒的なかわいさとかっこよさだった山下智久は、若い頃から多数の人気ドラマに出演しては話題になり、女性からも男性からも憧れの存在だった。今も「若く見える」と驚かれることが多い彼の顔立ちは、幼少期からすでに整っていたからこそなのかもしれない。
若い頃の山下智久を振り返る意義
山下智久の若い頃を丁寧に辿ると、見えてくるのは「天才」という言葉だけでは片付けられない努力と運と意志の積み重ねだ。離婚家庭で育ち、学校にも居場所を見つけにくかった少年が、テレビの中の輝きに触れて動き出した。骨折しても現場に向かい、多忙の中でも大学卒業を果たし、ミリオンヒットを連発しながらも決して驕らなかった。
2020年10月31日付でジャニーズ事務所を退所し、子どもの頃からの夢に向かい新たな一歩を踏み出した山下智久。その「夢」の輪郭は、あの11歳の夜にテレビの前で芽吹いたものだ。若い頃の山下智久を知ることは、現在の彼の活躍がいかに必然だったかを理解することでもある。過去を知れば、未来への期待はいっそう深くなる。